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PDD(ASD+ADHD)、難聴、思考メモ。リアル知人の方は見て見ぬ振りして下さい。
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40mg13日目
頭の多動(不安や興味を持った事が次々湧いてくる)も、モゾモゾも起こらず人の話が聞けた。
食欲不振。
15日目からは80mgに増量
面白ネタが思い浮かんだり、次々と弾きたい曲が思い浮かぶという事も少なくなってきた。

クリエイティブな仕事の人には向かないのかも。学校生活の人やコツコツした仕事の人には向くかもしれない。
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結婚を一時放棄した私が結婚について書いてみる。
(10月18日Eテレ バリバラ 視聴後)
結婚という言葉は「幸せ」なイメージが強いと思うが、その開催者、つまり本人たちにしてみれば同時に強い負担を強いるもので、「不幸」も大いにはらんでいるものと思う。
結婚も出産も、定型さんの言う「そんな苦労、幸せにかき消されるもんよ」なんて台詞は大暴投で投げ返したくなる。
しないけど。できる人は次元が違う所にいるんだなーっと思って、心から祝福しますけども。
ものすごい苦労して山あり谷ありやっと結婚して、ってストーリィは確かに「普通になろうとしている障害者」として心を打つことだろう。
一日中サングラスかけて過ごし、2時間ほども直射日光を浴びた後は必ずブッ倒れる視覚過敏持ちの私なぞは、視覚過敏のあるあおさんが「テレビの舞台照明を浴びてひな段に座っている」というだけで感動したもんですが、その感動を他の人が共有できるかと思うと謎だ。
生きて暮らしてるだけでヒイヒイハアハアっていうのが、私の当てはまる「発達障害」のようですけども、その上に鞭打つかね鬼かねと思った次第。
くらげさんがプロポーズしてあおさんが「ありがとうございます」って言ってあれはもうあれで完成形(言うかね)
眩しかったりうるさかったり罵られたり運悪く聞こえたり聞こえなかったり、ある一か月の普通を研究した頃には普通でなくなっていて憤慨し、それでも私がこだわりたい「普通」ってなんだろうか。
私が混乱しない範囲内で、私の益になることで、周囲に迷惑をかけない「普通」の範疇で。
このことはよく考える必要がある。

犬 1
子供の頃、犬は怖い存在だった。
きれい好き(…というよりは潔癖症?)の祖父母、父と同居していて、犬を飼う事は許されなかったので、犬というものがわからなくて怖かった。今思えば勿体ない少女時代だった。
うつ病になって、昼夜が逆転している頃に来たのがゴン太だ。
いくつになっても「ゴン」と呼べば満面の笑みでトコトコ寄ってくる。
年老いてからは甘えたに拍車がかかり、うまくゴン太の要求と私がした事が合致したら「あんにょ」と言う。
私が低気圧で不調な時はもれなくゴン太も不調なので、撫でる。雨がザーザー降ってる時は小一時間膝の上に乗せてやったり。
晴れてる日は抱っこを真剣に拒否する二面性を持つ、犬ながらに実子のようなかわいいヤツだ。
私は生涯こんな犬の人々(?)と暮らしたいと思っている。
犬は四足歩行なので、体の作りが丈夫だ。
人間の赤ちゃんというのはよろしくない。なよなよして取り扱いが怖い。
散歩必須の犬がよろしい。朝晩散歩に出る用事がなければひきこもりにリーチがかかってしまう。
気圧変化にぐるぐるする自分だが、目の前に自分が世話しなければならない、もっとぐるぐるしている物がいたら、シャンとしようと思う。
晴れてる日はドカドカ遊びたい。

私は犬と暮らしたい。

障害者がストーリィの題材になるような世の中でなくなればいいと思ってる。
障害者なんて単語がなくなればいいと思ってる。
今の障害者が障害を感じずに暮らせる社会であり、それを含めいろんな人がいて、精神的に肉体的に産まれ育ちに…色んな障害があって、生きていくのに一所懸命であること。
それが「普通」を名乗る条件でいいじゃないか。
私がよく言われるワードに、
「私は偉い、あんたは楽してる」
「多数が耐えられる事が、あなたが耐えられない、そんな事はない。甘えだ、逃げだ、ずるい」
というものがある。
それは「人間は全て健常である」という狭い見方から来る言葉ではなかろうか。
障害者がスポットを浴びるのは、きっといわゆる「普通」の人々より一所懸命な人が多いから。
自分に向き合って、限界まで追い詰められて、時には落っこちて。でも這い上がって、自分の範囲の「普通」に登っていく。
それは特別な事じゃない。でも普通に近い人のストーリィは既に語りつくさているのかもしれない。
暴論かもしれない。
周囲に違和感を感じずに育った「普通の人」ほど「普通」を考える事がなく、「普通」に対していい加減だと思う。
「普通」に含まれるたくさんの定義を考えずに「普通」ができる人ばかりではない。
…もちろん考えずに「普通」ができる人はできる人で素晴らしいセンサーーと感性と適応力を持っていると思う。
そこで。
例えば、朝目が覚めて、トイレに行って、顔を洗って、朝ごはんを食べる。
私は調子のいい日はここまでだいたい30分くらいだ。
この30分でいくつ感動できたか?
朝目が覚めるのは決して普通ではない。鬱真っ盛りの時は昼夜逆転していた。朝ほど憂鬱な事はなかった。
トイレまで歩けるのは普通ではない。骨折していた頃は松葉杖や車いすを使っていたし、絶対安静で起きれない時もあった。
ドアが開けられるのも。用が足せるのも。ごはんを認識できるのも。箸が持てる事も。
できない人々がいる。
当然の事ではない当然の事。
その有難さを思い出させてくれる存在として障害者という立場の者が一時的にいるのだろう。
人間は忘れる生き物だから。忘れないと生きていけない生き物だから。
全ての人がよくある当然を有難いと感じ、他人はすべて自分の知らない所で努力しているのだと認識し、できない事を助けてもらったら「ありがとう」と言う。
そんな世界はまだ遠いと思っている。
だからこのブログでは障碍だの障がいだのという表現を使わずに障害と表現している。
障害があることで私たちは困っている。
障害という単語が使われなくなる世界を祈る。

聴覚障害者について続き。
サンプルが少ないのでアレなんだが、45歳から下の聴覚障害の方は、筆談、チャットでは流暢な日本語を使う事ができる人が多いと思う。
デフファミリーで育った人は特に幼少期から本をガンガン読んでいるので、筆談の定型文が多い。中には筆談で討論できる強者もいる。
でも、音声での会話となると人それぞれで、あいさつ程度の会話ができる人、発語ができる人、発声で精いっぱいの人、無音の人それぞれである。
そんな方と自分がオーバーラップする時がある。
私は音声で会話するのがとても苦手だ。
友達以外の人としゃべるときは、場面ごとに定型文リストがあり、そこにない会話を要求されるとしどろもどろになる。
声が苦手な音域の人や、滑舌が悪い人の言葉を聞き取るのが難しい。
加えて表情を読み取るのを優先した結果、だいたい人相を覚えていない。
応用がダメなヤツなのだ。
(友達は私が話を飛ばそうがなんだろうが流したり拾ってくれる特異な人だと思う)
定型文をしゃべっている時はまあまあ普通に見えるみたいなので、自分も周りも困る。
同様に読唇術に長けた人というのも、人の話を聞いて、定型文を発するまでは難なくできる人が多いのではないだろうか。
そんな方とよくあるろう高齢者のイメージが違うのは当然である。
手話というのは音声を使わないかわりに「表情」「身振り」「手話の型」「手話の文法」を使う非常に高度な言語で、私は諦めモードの言葉だ。
地方色が強く、関西でしか使われない手話、**市でしか使われない手話、日本共通の手話、また日本語対応手話というものもある。
日本手話が優勢なようだが、助詞をつける日本語対応手話は学問をする上で有効だと考える。
そのほかにも各国の手話、国際手話がある。
(会話はできなけど、手話の指文字や指数字は便利だと思うんだなぁ。聞き間違えないもの。)
手話の話をちょっと切り上げてー。
「聴覚障害者はこう」「車いすはこう」「視覚障害はこう」
そういうイメージもおおかたの人が持つ定型文の一つだと考える。
合わせ技やグラデーションが来ると耐えられなくなって、おおかたの人のいる所に帰る。
おおかたの人を責めるつもりはない。おおかたの人が普通を感知して普通の中で生きていくのも、並大抵の事ではない。
自分がおおかたの人々で、突然自分の状態になったら、まあ正気ではないでしょう。
この問題を解決する策は貧乏脳の私にはない。誰か教えてくださらんか・・・